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冨宅:日本におけるガラスの歴史を教えていただけますか。
白幡:古くは弥生時代の遺跡からガラス玉が発見されていますが、詳細ははっきりしていません。その後、室町や江戸期に、ポルトガルからガラス製品が伝えられ、天皇や公家、大名などに献上されています。製造法も伝わり、長崎ガラス(びーどろ)が作られて佐賀や福岡、大阪、江戸へと広まりました。
冨宅:ガラス製品が身近になってくるのは明治・大正時代の頃でしょうか。
白幡:そうです、ランプや瓶が作られ始め、戦中戦後を経て、日用品のガラス器製造が工業化していきます。ガラスメーカーの保谷硝子(現HOYA)は1941年に創業しています。
冨宅:白幡先生がいらした会社ですね。
白幡:そうです。高校卒業後、当時成長期にあったクリスタルガラス事業の職人として入りました。
冨宅:もともとガラス工芸にご興味をお持ちだったのですか。
白幡:特にはありませんでしたね。でも鉛筆と紙があれば何時間でも絵を描いていたので、物作りは好きでした。
ただ根が無器用なので、職場では切子や平面研磨の技法を修得するために、定時を過ぎても9時、10時まで毎晩ガラスを削っていました。その頃得たものが今の私を作っています。
冨宅:お勤めされている間に、一度海外に行かれていますね。
白幡:ええ、就職して6年目、24歳のころです。人生がはかなく思え、会社も、ガラスもやめるつもりで1年間の放浪に出ました。ロシア、ヨーロッパなどを歩き回りましたが、結局向かうのはガラスのあるところばかり。6か月滞在したパリでもう一度ガラスをやろうと決め、会社に戻りました。
冨宅:その時点ですでに将来的に工芸作家を目指されていたのでしょうか。
白幡:そうですね。43歳頃から工房を造る準備を始めました。会社は価格ありきの世界なので、妥協しなくてはならないことも多く、妥協せずに物作りをするために45歳で独立しました。 |
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冨宅:独創的な美しいフォルムと繊細な紋様が印象的で、実際に作品を拝見しますとさらに感動が深まります。デザインはどのようにされるのでしょうか。
白幡:手を動かしている時に「次はこうしてみよう」とアイデアがわくことはあります。ですから常に物を作ることでまた新しい考えが生まれるのでしょう。
冨宅:イメージしたものを実際に表現する作業は大変ではないですか。
白幡:それが私の仕事ですから。食事をするのと同じ感覚で仕事をしてきているので、道具は頭に入っています。考えると同時に頭の中の3Dコンピューターで削ったり磨いたりしているようなものです。
冨宅:もう頭の中で制作が始まっているのですね。実際の工程はいかがですか。
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白幡:一般的には、できあがった器物を加飾して仕上げます。もちろん、私もやりますが、ガラスの塊から形を削り出すことをします。機械でできることは限られるので、自分の欲しいラインを出すためにはどうしても手摺りが多くなります。
たとえば円形の「浮彫紋花器」は、表面に凹凸をつけ、尖端をひねって切ったような形に削りました。「剥貫蓮弁の蓋物」は、四角く切り出したガラスを、外側は削って、内側はくりぬいて作りました。木彫の技法を応用したのです。
冨宅:技術と気力がなければできないことですね。そのほか細かい紋様のあるもの、ガラスの平面を生かしたもの、両方を組み合わせたものなどがありますが、削り方や磨き方も異なるのでしょうか。
白幡:紋様は、ガラスの表面をダイヤモンドホイールやセラミック砥石で削っていくカット技法です。平らな面は平面研磨という技法で透明感を上げていきます。普通、工場では分業制ですが、私は両方覚えてしまいました。
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冨宅:だから表現が豊かなのですね。
白幡:特にクリスタルガラスは、透明度や屈折率が高く、削り方、磨き方ひとつで表情が変わるので、仕上げには徹底的にこだわります。たとえば平面研磨は、回転する円盤上に水で濡らした研磨材を流しながら、 表面を押し付けて削っていきます。私の場合はその後、600番の荒い番手の研磨材から細かい1500番まで4、5段階の磨きを経て、最後に糸屑を固めたフェルト研磨機に、レンズなどを磨くセリウムという研磨材を水で溶き、回転するフェルトに付け、ツヤを出していきます。
冨宅:磨く作業が何段階もあるとは知りませんでした。
白幡:どこまで磨くかは、仕事を覚えた環境によると思うのですが、「ここまで磨いて100%」と思う人、70~80%磨いてそれを100%と思う人もいます。ですから完成度はその人が持っている目で決まるのでしょう。
冨宅:厳しい目で突き詰めて作られる先生の作品には、オーラがあり、置くだけでその場の空気を変えてしまうパワーを感じます。 |
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