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冨宅:赤い地に白い釉薬のコントラストが世界的にも評価が高い志野焼ですが、その起源をお聞かせいただけますか。
鈴木:志野は、日本人が世界に誇れる創作であり、この美濃で生まれたものです。茶の湯がもてはやされた室町~江戸初期に、わずか20年の間だけ焼かれたと言われています。しかしそれも1930年に荒川豊藏先生(「志野」の初代人間国宝)が岐阜県可児市で志野の窯跡を発見されて美濃で焼かれたことが分かりました。
冨宅:特徴はどのようなものですか。
鈴木:志野の特色は、その白い、たっぷりと施された長石釉が、淡雪のふりつもったように、ふんわりと落ち着いた光沢を放ち、ところどころに緋色という、志野独特の調子の高い薄紅色が、その柚子のようなふつふつアバタのある肌に、自然ににじみでているところにあります。(荒川豊藏先生 世界陶磁全集(平凡社)志野編引用)
形も総体に大ぶりで豪快、画かれた文様もいかにも素朴で健康的です。たしかに志野は、あらゆる陶器のうちで、もっとも日本的なやきものなのです。
この長石釉をつかった白いやきものの発見は、日本陶磁史上では、かつてない大きな意味をもつ発見でした。これまで陶器にできなかった絵画的表現、つまり絵付けが可能になったという点でも、革命的でありました。
冨宅:どの作品も、豪快ななかにも温かみがあって品を感じます。鈴木先生がやきものを始められたのは、お父様(鈴木通雄氏)がきっかけとうかがっていますが。
鈴木:そうです。私は高校を出て、多治見の丸幸陶苑にいた父の助手として随分と厳しく扱かれました。父はそこで試作品を作っていました。作るには、材料を知らなければなりませんから、土や釉薬について研究は膨大な量に及び、後に父は釉薬の専門家と呼ばれるようになりました。私は、やきものをやる気持ちはなかったのですが、たまたまろくろを使って作陶する機会があって、うまく形ができたものですからやれば出来ると興味を持つようになりました。
時を同じくして1955年に荒川先生が人間国宝になられ、志野が脚光を浴びます。そこで私たちは志野を石炭窯で焼けないか試行錯誤を重ね、志野の緋色を出すことに成功。私はそれを世に出すために出展を始めたのです。
一回目は現代日本陶芸展(1959年)の課題作の部に志野の丸皿を5枚出して運良く佳作がつきました。嬉しくなりまして、その年の日本伝統工芸展に出すと、また入選させてもらい、その流れで陶芸を始めました。
冨宅:その後10年間連続で受賞を重ねられています。素晴らしい才能ですね。
鈴木:いいえ、運がよかったのです。もし理由があるとすれば、父に鍛えてもらったおかげだと思います。
冨宅:材料が決まって、ろくろを回し始めてから、作品ができるまで、どのくらいの時間がかかるものですか。
鈴木:ガス窯がいっぱいになりますと焼きに入りますが、茶碗ですと大体70個入ります。70個作るのにだいたい3~4か月かかります。窯出ししても、よいものは二割取れればいいほうですから難儀なことです。
冨宅:そうなのですね。思いを込めて手間ひまかけて作られる作品は1点1点が本当に貴重ですね。 |
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冨宅:作品を作る上で心掛けていらっしゃることはありますか。
鈴木:志野を作り始めてしばらくたってからですが、日本のやきものには日本人の文化を持っておりますから教えられることは大きいです。
世阿弥の著作も素晴らしいですが、我が国の中世から近世にかけての文化を学ぶとなると世阿弥と芭蕉だと思います。「笈の小文」にも多くのことを教えられました。西行、宗祗、雪舟、利休を上げて其の貫道するものは一なりと言って、造化に従って造化に帰れと(造化は自然のこと)書いております。また創作の理念として不易流行を挙げ、本質的なものを大切にしながらも、心も言葉もともに新しみを持って命とする、と言い、自分をも律していたようです。
冨宅:深い教えです。先生もそのように、常に新しい物を見いだそうとされているのですね。
鈴木:そういう気持ちを持っていないと訴えるものは生まれないのではないでしょうか。
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冨宅:日本人の美意識、感性とはどのようなものと思われますか。
鈴木:昨年亡くなられた米国出身の日本文学者のドナルド・キーンさんが、日本人の美意識とは、「暗示または余情」「いびつさ、ないし不規則性」だとおっしゃっていました。
前者は、見えない世界の表現をすることで、能や夢幻能、枯山水と借景などのように、見えないものを表現したり、感じ取ったりする感性は、私たちの美意識の根底にあるものなのでしょう。
冨宅:私も常々見えないものの影響が大きいのではと感じております。
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